名前 評判・実績・評価など

市村清

(いちむら・きよし)

市村清

【就任期間】
1952年6月~
1968年12月16日

【生まれ】
1900年

【死去】
1968年12月16日
(享年68歳)

三愛オブリなど三愛グループの創業者。戦後新しい事業を次々に開拓したベンチャーの先駆者として歴史に名を残している。

リコーなどの優良企業次々と創業したマルチ起業家。感光紙、カメラ、複写機、アパレル、時計、清涼飲料水、石油、デパート、不動産、リース…。大衆が求めていると読んだ事業に積極的に取り組んだ。

その中でも大当たりしたビジネスの一つが、三愛オブリ(旧三愛石油)だった。

コングロマリット「リコー三愛グループ」を構築。亡くなる1968年(昭和43年)、グループは21社、従業員1万2000人、総売上高620億円の大企業集団となっていた。

三愛オブリ設立

1952年(昭和27年)6月に三愛石油(現:三愛オブリ)を設立。石油製品の販売業に乗り出した。石油類の統制が撤廃され、そこに商機を見た。

羽田空港の給油ビジネス

民間航空が再開されると、航空輸送の将来性に着目。羽田空港における航空機向け給油ビジネスに乗り出す。設立から4か月後の1952年10月には羽田営業所を開設した。

ハイドラント式給油設備

羽田空港向けの航空機燃料の給油では、「ハイドラント方式」を採用した。

地下にパイプライン(埋設管)を通し、航空燃料を届けるシステムだ。ハイドラント(hydrant)とは、英語で「消火栓」を意味する。

この方式だと、航空燃料を効率的に給油することができる。国内主要空港のモデルともなった。

市村氏の英断により、羽田での給油・貯油施設を独占することができた。今日に至るまで安定的かつ潤沢な収益源になっている。

市村氏は航空機の大型化と発着回数の激増を予見した。卓越した先見性だ。国際線が成田空港に移転したときは、燃料供給量が一時低迷した。しかし、後に首都エリア内にある羽田空港が見直され、国際便が増えた。

三愛オブリは国際線増便に対応し、拡張工事や貯油タンクの増設。大型タンカーの着桟可能な桟橋の新設も行った。羽田拡張に伴い、同事業が一段と安定収益源になった。

生涯

貧困の少年時代

1900年(明治33年)、佐賀県北茂安村(現:みやき町)に生まれた。農家だった。

7人兄弟姉妹の長男。貧しかった。

頑張り屋の正義漢。弟や妹たちにみじめな生活はさせたくないという責任感があった。

成績は抜群で、小学校ではずっと1番だった。ガキ大将でもあった。

祖父がくれた牛

10歳の頃、おじいちゃんが牛をくれた。その牛を大切に育てていた。進学のためのお金を工面するためだった。

国が牛を差し押さえ

しかし、家が税金を払えず、牛は国に取り上げられてしまう。この悔しかった経験が、納得いくまでとことん闘う性格を形づくったといわれる。

村で初めて高校に

村で初めて佐賀中学(現:佐賀西高)へ入学を果たした。しかし、1年余で中退した。やはり貧しさのためだった。

野菜売りなどの行商をして家計を助けた。

16歳で銀行に

16歳で銀行に入った。「事務見習い」の立場だった。

向学心は燃えさかり、東京勤務を希望する。

上京し、働きながら中央大学の夜間部に

転勤後、中央大学の夜間部に入学した。

昼間は銀行で仕事、夜は大学に通う生活を送った。

中国へ

22歳で大学を辞めた。中国・北京に本社がある別の銀行へ。

中国大陸へ転勤する。出世し、取締役にまでなった。ところが、1927年の金融恐慌で勤務先の銀行はあえなく倒産する。

上海で逮捕

1927年夏、中国・上海。留置場に入れられる。

支店長代理の市村に横領の容疑がかかったのだ。27歳だった。

5カ月間、留置場い

酷暑と連日の取り調べ。「気が狂いそうだ」と感じた市村は「将棋でもやれないか」と想を練る。

そこに小さい窓から舞い込んできたのが「すす」だった。トイレットペーパーのしんを切り、そこに「すす」で文字を書いて将棋のこまを作った。それで将棋を楽しむようになった。

容疑が晴れるまで5カ月間、留置場で暮らした。不屈の闘志で耐えながら、無から有を生み出す術をつかんだ。

「人間、地獄のようなところでも工夫次第で何でもできるもんだ」。ようやく疑いが晴れた清は日本に帰国し、事業家の道を歩むことになる。

帰国し、熊本で保険セールスマンに

上海から帰国すると、保険のセールスマン(外交員)になった。熊本県に赴任する。

ところが保険が売れない。契約ゼロが続き、あきらめて「東京へ逃げよう」と覚悟を決めた。61日目だった。

8回断られていたある学校の先生から、「最後にもう1回…」と訪ねた9回目で初めての契約が取れた。これをきっかけに運が開けた。

理研(理化学研究所)との出会い

九州で新興企業だった「理研(理化学研究所)グループ」と出会う。これが、その後の運命を大きく変えた。

1929年 「理研感光紙」の九州地区の販売代理店になる
1933年 「理化学興業」の感光紙部長に
1936年
2月6日
「理研感光紙(現:リコー)」を設立。代表権を持つ専務取締役に就任。(社長は空席、会長は大河内正敏)
1938年3月 「理研光学工業」に社名変更
1942年 理研グループから独立

「理研感光紙」の九州地区の販売代理店に

佐賀市にあった保険代理店の店主と懇意になった。この店主は、「感光紙」の九州地区の販売代理店をしていた。感熱紙とは、写真を焼き付ける紙だ。

この店主の妹は、日本の女性科学者の草分けとなる、黒田チカだった。チカは研究者として理研に所属しており、その縁で感熱紙を売っていたのだ。

1929年、店主は保険の営業成績が優れていた市村を気に入った。その結果、市村は店主から九州地区の販売代理店の権利を買い取ることとなった。

同年、市村は福岡市に店を構えた。初めて雇った従業員3人をとても大事に扱い、自分の子どものようにかわいがったと伝えられている。

九州にある電力会社、造船、石炭会社、鉄道、製鉄といった大企業を得意先にして業績を伸ばした。

「理化学興業」の感光紙部長に招聘

当時の理研には、戦前、日本を代表する科学者たちが集まっていた。ここで発明された成果を基に企業化が積極的に進められた。

約60社から成る「理研産業団」がつくられた。「理研コンツェルン」と呼ばれた。

理研コンツェルンの総帥は大河内正敏(おおこうち・まさとし)氏であった。

大河内氏は、市村氏のセールスマンとしての能力に目をつけた。1933年、東京にある「理化学興業」の感光紙部長として招き入れた。

「理化学興業」は、理研産業団として最初の企業であり、大きな期待を背負っていた。

リコーの前身の「理研光学工業」をはじめ理研産業団の企業十数社の経営に参画。40歳で11もの会社の社長や専務を任されるようになった。

「理研感光紙(現:リコー)」の初代代表に

その後の1936年2月、「理研感光紙(現:リコー)」が設立される。市村氏は代表権を持つ専務取締役に就任する。社長は空席、会長は大河内正敏が就いた。従業員33人でスタートした。

1938年3月、「理研光学工業」に社名変更された。

1942年/理研グループから独立

1942年には理研コンツェルンからも独立し、戦後の活躍の基盤を固める。

「コンツェルンにおける最も特異な存在だった」。理研科学映画に籍を置いていた評論家の大宅壮一は、市村清を、そう評価した。

戦後

東京・銀座に食料品店

敗戦直後の1946年、東京・銀座に食料品店「三愛」を開く(当時46歳)。このころは物価がとても高かったが、この三愛では食料品を適正な、人々が買える金額で売ったことで、繁盛し有名になった。ヤミ値の半額で売った。

女性服の店に

市村氏は客がトイレで交わす雑談に着目し、「雑談を聞けば次に求められるものが分かるのでは」と考え、アルバイトの女子学生にデパートなどのトイレでこっそり話を聞いてもらった。会話内容をメモさせたのだ。

その結果、若い女性がおしゃれに目覚めていると分かり、銀座の食料品店を女性用の洋服店に変えた。市村氏らしい柔軟な経営だった。

多角化経営

常に大衆に目を向けた。大衆に事業のヒントを探った。銀座のシンボルとなる円筒形の三愛ドリームセンターを建てた。

リコーでは大衆カメラブームを巻き起こした。55歳の頃、米国の会社でコピー機(事務機)を使った先進的な働き方を見て「日本もこれからこういう働き方になる」と考えた。これがリコーがコピー機を作る原点になった。

アイデアが次々とわき出てきた。日本リース、北九州コカコーラ、ホテル三愛などを次々と創立。成功に導いた。

北九州コカ・コーラは郷土に錦を飾るべく市村氏が九州に作った外資との合弁が発祥。リコーエレメックスは、伊勢湾台風のダメージで経営悪化した上場企業の高野精密工業が前身で、市村氏が経営再建のために出資した。

本田宗一郎氏(ホンダ創業者)、井深大氏(ソニー創業者)との対談(鼎談)では、2人が「専業説」を唱えたのに対し、市村氏は「経済は浮き沈みがある。よろず屋の方が絶対安全だ」と多角経営を主張して譲らなかった。

作家の邱永漢は市村氏を「上から1円入れたら、下から2円出てくる自動販売機のような人だ」と評した。

有名人になる

異業種の企業経営に次々に成功したことで、「高度成長時代の寵児(ちょうじ)」と呼ばれた。テレビや新聞、雑誌、講演にも引っ張りだこ。時代の寵児となり、市村の周りには若手の経済人、政治家、作家たちが集まり、「市村学校」と呼ばれるほどの活況を呈した。政府関係の審議会委員も務め、ほとんどリコーの経営を顧みる余裕がなくなった。

知らず知らずのうちに“裸の王様”になった。売れたはずの製品が実際は倉庫に山積されている“架空販売”が、予想以上の規模に達していた。

1965年、リコーの業績が悪化し経営がピンチに。後に「人生で一番の苦労」と話し、妻・幸恵さんも「死んでしまうのでは」と心配するほどだった。

3カ年の再建計画の陣頭に立ち、リストラを進めた。必死に立て直し、新たに開発したオフィス用卓上コピー機「電子リコピーBS1」を大ヒットさせる。リコーにとって救世主のような商品だった。

巨額の借り入れを完済し、1967年に復配。見事に再建を遂げた。「財界総理」と呼ばれた元経団連会長・石坂泰三から「10年先のことを自信をもってやっている」と高く評価された。

「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」という「三愛精神」をモットーに掲げた。

体育館を寄贈

東京五輪の前年の1963年3月。間もなく63歳のとき、私費約2億1000万円を投じて「市村記念体育館」を建設。佐賀県に寄贈した。

パリ万博(1937年)で日本館を設計した国際的な建築家、坂倉準三が設計した。純国産技術による初めてのつり屋根工法を用いて造られた。西日本一のデラックスな体育館だった。

落成式で割れるような拍手に迎えられて壇上に立った。「故郷に恩返しができて…」と言った後、言葉が途切れた。式典に参列した出身地の北茂安中学の生徒たちを見て、苦しかった子どものころを思い出したのではないかと言われている。

明治記念館

明治記念館の建設などにも貢献した。47歳の時には、戦争で荒れてしまった明治神宮の建物の再建に乗り出す。「戦争から戻ってきて結婚したい人々が、ちゃんとできるように」と、相談から挙式まで対応できる結婚式場にすることを掲げた。

「新技術開発財団」

人生末期のプロジェクトが 「新技術開発財団」(市村財団/市村清新技術財団)だった。人生最後の仕事として、財産のほとんどを投じた。

市村氏は病床で、独創的アイデアの開発者を育成・顕彰する財団法人の設立を思いついた。「社会の繁栄の基礎は科学技術の進歩と産業経済の発展にある」と考えていたためだ。

相談を受けた佐賀県選出参院議員で科学技術庁長官を務めていた鍋島直紹が奔走し、死の4日前、設立の許可が下りる。

市村が寄贈した個人名義の有価証券(30億円分)で運営。遺産30億円を投じた市村氏の最後の仕事となった。

略歴

1900年 佐賀県三養基郡北茂安村(現北茂安町)に生まれる
1914年 旧制佐賀中を中退
共栄貯金銀行久留米支店の業務見習いに
1920年 ・中央大学(夜間部)入学
・共産主義に傾倒
1922年 日中合弁の大東銀行へ
1927年 ・横領容疑で上海領事館司法部に逮捕されるが無罪に。
・帰国して保険外交員になる
1929年 福岡市で理研感光紙の代理店を開業
1933年 理化学興業の感光紙部長に抜てき
1936年 リコーの前身、理研感光紙設立
1942年 理研コンツェルンから独立
1946年 東京・銀座に生活物資販売の三愛を開業
1950年 2眼レフカメラ、リコーフレックス発売
1952年 三愛石油(現:三愛オブリ)設立
1958年 「西銀座デパート」社長に
1962年 後にリコー時計(現リコーエレメックス)となる高野精密工業社長に
1963年 ・東京・銀座「三愛ドリームセンター」がオープン
・佐賀県に体育館(市村記念体育館)寄贈
1965年 リコー経営危機。赤字で無配転落
1967年 リコー再建に成功
1968年 肝臓がんのため死去

館林三喜男

(たてばやし・みきお)

館林三喜男

【就任期間】
1969年1月~
1975年5月

【生まれ】
1904年1月

【死去】
1976年10月(享年72歳)

元国会議員(衆院当選4回)。戦時中まで内務官僚として特高警察を指揮した。市村清と同じく佐賀西高校の出身だった縁で、副社長として三愛オブリ(当時:三愛石油)に招かれた。市村氏の死去に伴い、副社長から昇格した。リコーの社長も兼務した。

副社長就任当時、業績安定による沈滞ムードを厳しく指摘した。これを払拭するため若手管理監督者による現状打破運動をまき起こさせ、短期間に完全に社内ムードを一変させた。

また常日頃から不況期にも強い全天候型の企業体質づくりを目指して、まず石油販売部門の拡充強化を進めた。羽田空港向け給油ビジネスとならぶ2本の柱の確立に尽力した。

さらに、「建築設備」「防災」「化成品」といった新規事業に進出し、経営の多角化を進めた。成田空港の開港に向けた態勢を整えた。

略歴

1904年
(明治37年)
佐賀県生まれ。
1928年
(昭和3年)
・東京大学(当時:東京帝国大学)法学部卒業と同時に内務省に入省。
・群馬県警察部長
1945年
(昭和20年)
東久邇総理秘書官、東京都教育局長
1951年
(昭和26年)
佐賀県副知事
1952年
(昭和27年)
・衆議院議員(当選4回)。
・市村清創業社長の要請で、1967年(昭和42年)三愛石油副社長。
1968年
(昭和43年)
三愛石油社長就任
1969年
(昭和44年)
リコー社長就任
1976年
(昭和51年)
5月
三愛石油社長を退き、会長就任。
1976年
(昭和51年)
10月22日
東京都世田谷区の自宅で心筋梗塞のため急逝。享年72歳。

特高警察の官僚だった

赤旗によると、館林は内務省で「警保局事務官活動写真フィルム検閲係主任」だった。


巻幡静彦

(まきはた・しずひこ)

巻幡静彦

【就任期間】
1975年5月~
1982年6月
※運輸省出身

【生まれ】
1916年(大正5年)10月13日、大阪生まれ

【死去】
1982年7月26日、東京都立駒込病院で死去。(享年65歳)

国土交通省(運輸省)の官僚出身。48歳で民間の航空会社(JAS)役員に転出。その後、1966年に三愛石油の常務に就いた。大物社長としてリーダーシップを発揮したが、任期中に体調を崩して退任した。1982年死去。享年65歳。

人物像に関する評判

本人いわく、先祖は瀬戸内海の海賊だったという。豪快な気性。いわゆる「豪放磊落(ごうほうらいらく)な人物」と評された。

その一方で、社内の同僚・部下たちは「こまやかな心配りができる人」と評価した。

人情に厚いものの、経営者としては「合理的でシャープな感覚」を備えていたという評判が多い。庶民的で、相手との距離を縮めるユーモアも、経営の現場で生かされたようだ。

また、プライベートでは慎ましい生活を送っていたとの口コミが残っている。大柄な体形も特徴だった。「三国志に登場するスケールの大きい武将」とのレビューもある。

略歴

官僚時代

1941年、逓信省航空局(後の運輸省、現在の国土交通省)に入省した。監督課に配属された。戦後、民間航空の再構築を担当した。

1964年2月に経済企画庁審議官に就任する。同年11月25日に退官し、官僚生活を引退。48歳だった。

48歳でJAS常務になるも、すぐ辞任

1964年11月30日、日本国内航空株式会社(後の日本エアシステム。すなわちJAS)の常務に就任する。不採算路線を抱えたローカル航空会社3社が合併し、日本国内航空として発足して間もないころだった。

ところが翌年1965年9月、早々に辞任した。経営悪化の責任をとって、当時の役員が総退陣したのだ。

三愛時代

1966年10月に三愛オブリ(当時:三愛石油)に入社。翌月の11月に常務に就任した。それから順調に社長へと上り詰めた。

1966年11月、常務

1969年5月、専務

1973年5月、副社長

1975年5月、社長

1972年6月、会長

三愛での実績

羽田増強

やがて成田の国際空港が開かれようというときに、羽田空港のハイドラント給油施設の改善を決断した。

先行き事業の縮小が明らかだったのに、あえて投資を行った。結局、成田の開港は遅れた。また、羽田の国内線は増えた。「羽田増強」は三愛に大きなメリットをもたらした。

「巻幡長計」策定

常務時代に第1次長期計画を策定した。この計画は、通称「巻幡長計」と呼ばれた。

社外での功績

国際的な通商問題に対応した。国際航空運送協会(IATA)や国際民間航空機関(ICAO)の国際会議で、日本政府へのアドバイザーを務めた。

家族

息子

(1)巻幡憲治(株式会社ANAケータリングサービス)

(2)巻幡隆利(株式会社ラストワンマイル)


内村信行

(うちむら・のぶゆき)

内村信行

【就任期間】
1982年6月~
1990年6月

【死去】
2020年9月4日、老衰のため死去。(享年99歳)
喪主は妻、亮子さんが務めた。

国土交通省(運輸省)出身。役所を退官後、運輸省の先輩である巻幡・前社長からスカウトされ、1978年6月に三愛入り。

学歴

東京大学

略歴

前任の巻幡社長が運輸省の課長時代、部下(課長補佐)だった。

運輸省を退官してしばらくしてから、巻幡社長と沖縄旅行に行く機会があった。そこで「うちの会社に来ないか?」と誘われた。

1978年6月末、三愛オブリに入社。4年間、副社長を務めた後、1982年6月、巻幡氏の病気に伴い、社長に就任した。


伊東義晃

(いとう・よしあき)

伊東義晃

【就任期間】
1990年6月~
1999年6月
※初のプロパー社長

【死去】
2015年3月1日死去。(享年81歳)

創業者を除けば初のプロパー社長。

入社年次

1956年

社長就任時の年齢

57歳

社長就任前の役職

専務

前任者の処遇

内村社長は代表権のある会長に

略歴

取締役石油卸売部長、常務を経て、1987年6月から専務。

出身校

西南学院大学(福岡市)

出身地

佐賀県(創業者と同じ)


和田武彦

(わだ・たけひこ)

和田武彦

【就任期間】
11999年6月~
2007年6月

専務から昇格。就任時63歳。伊東社長は代表権のある会長に

入社年次

1958年

社長就任時の年齢

63歳

社長就任前の役職

専務

前任者の処遇

伊東社長は代表権のある会長に

略歴

1985年取締役、1990年常務、1994年専務。

出身校

学習院大学(政経学部)

出身地

東京都

実績

2004年にキグナス石油を買収。100%子会社化した。


金田凖

(かねだ・じゅん)

金田凖

【就任期間】
2007年6月~
2017年6月

【生まれ】
1948年

入社年次

1972年

社長就任時の年齢

58歳

社長就任前の役職

常務

前任者の処遇

和田武彦社長は会長に

略歴

2001年取締役、2004年4月常務取締役

出身校

桜美林大学

出身地

高知県土佐町


塚原由紀夫

(つかはら・ゆきお)

塚原由紀夫

【就任期間】
2017年6月~
2023年3月末

専務から昇格。就任時65歳。金田社長は代表権のある会長に。

入社年次

1975年

社長就任時の年齢

65歳

社長就任前の役職

専務

前任者の処遇

金田準社長は代表権のある会長に

略歴

2007年取締役、2013年常務、2015年専務。

出身校

中央大学(理工学部)

出身地

神奈川県


隼田洋

(はやた・ひろし)

隼田洋

【就任期間】
2023年4月1日~

常務執行役員から昇格。就任時59歳。塚原社長は取締役(特別顧問)に。会長は金田氏が継続(代表権あり)。

入社年次

1986年

社長就任時の年齢

59歳

社長就任前の役職

取締役・常務執行役員

前任者の処遇

塚原社長は取締役(特別顧問)に。

会長は金田氏が継続(代表権あり)

略歴

2017年監査役、2022年取締役・常務執行役員

出身校

武蔵大学(経済学部)

出身地

福岡県

(参照:スナップアップ投資顧問 評判